Page 23 - 神戸フィルムオフィス20周年記念
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 たれ、まずフィルムコミッションのリサー チをするという仕事を依頼されました。そ れで、アメリカの国際フィルムコミッショ ナーズ協会(AFCI)に連絡をしたところ、 「まずは1週間の研修を受けてください」 と。それでアメリカに行ってみたら、日本 にフィルムコミッションができるかもしれ ないということに、アメリカの方たちも関 心を持ってくださいました。というのも、 ハリウッドでは、「日本での撮影は難しい と言われているが、チャンスがあればやっ てみたい」という思いを持っている製作者 が多かったのです。
─ 研修の内容やアメリカでのリサーチを 神戸市に報告。それを受けて、実際に神戸 フィルムオフィスの立ち上げが決定され た。当初、担当者が育ち、軌道に乗るまで、 くらいの気持ちで代表を引き受けたという まこさん。ところが、だんだん「私自身が 神戸の人間になって、本気でやるべき仕事 だ」という思いがふつふつと湧いてきたと いう。 田中 私の生まれは大阪ですが、1970年 ~ 73年まで西宮市に住んでいて、神戸に もしょっちゅう来ていました。阪神・淡路 大震災の翌日、西宮で暮らしていた祖母を 助けるために来たとき、震災直後の街を目 の当たりにして言葉にならなかった。でも、 当時の私は祖母を東京に連れて行くことし かできず、街のために何もできなかったと いうわだかまりがずっと自分の中にありま した。それが、フィルムオフィスの準備で
創立前夜
毎月のように神戸に通ううちに、私が街の
ために何かできるとしたら、今のこのタイ
ミングなのだという気持ちが強くなってき
て、私の第二の人生は神戸で過ごすと決意
しました。なんとしても神戸フィルムオフ
ィスを成功させて、その活動を通して神戸
を元気にしたい、そんな覚悟が生まれたの
です。
─ 記者発表の段階から問い合わせが殺到 したという神戸フィルムオフィスの創立。 とはいえ、実際にロケを誘致して支援を実 現するまでの道のりは困難を極めた。神戸 フィルムオフィスの知名度はゼロ、フィル ムコミッションの役割も知られていないの だから、それも当然。 田中 「あんた誰なん?」という状況でし たから、「神戸フィルムオフィスです」と 連絡を入れたら、「はいはい」と受けても らえる日が来るなんて想像もできなかっ た。とにかく最初の3年間は大変でしたが、 街にも市役所にも警察や消防にも理解者が 増えていって、本当に救われました。  道路を封鎖したり、絶対に無理だと思わ れていた地下鉄の線路内での撮影をいち早 く神戸で実現したことで、それを前例にし て日本の他都市でも大規模な撮影が行われ るようになりました。そして、映像が持つ 発信力に加えて、大好きな地元にいながら 映画の仕事に関われるということも提示で きたのでは、と思っています。いまや日本 全国に300以上のフィルムコミッションが あるわけですから。
田中まこ
2000 ~ 2016年、神戸フィルムオフィス代表を 務める。その後、2016年4月~ 2020年3月まで 同オフィス顧問。ジャパン・フィルムコミッシ ョンでは理事長を経て、2019年から同顧問に。 流通科学大学特別教授。
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Eve of Foundation
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